疑問に思うことの大切さについて考えさせられた長男のテスト内容。

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先日、長男が国語のテストを持って帰ってきました。

 

その中で…

 

「あなたは、なんの どうぶつの 赤ちゃんの ようすを しりたいですか」

「わけも かきましょう」

 

という設問があったのですが、長男は知りたい動物を「きりん」とした上でその理由について…

 

「さいしょの 赤ちゃんのときから くびがながいか しりたいです」

 

と回答していました。

 

私はこれを読んで「確かにねー」と親バカながら感心してしまいました。

 

きりんという動物は首が長いという特徴があるのは子供も動物園などで見て知っています。

 

ですが、生まれた時から赤ちゃんの首が長いかどうかは、きりんの生まれたての赤ちゃんを見た人にしか分からない。

 

図鑑やテレビで観ても、誰かが「きりんの赤ちゃんも首は長いよ」と言っていたとしても、本人が見ていない限りそれが真実とは限らないんですよね。

 

きりんの赤ちゃんを知らない人にとっては、きりんの首は生まれた時から長いのか、生まれてしばらくしてから伸びてくるのかは分からないのです。

 

長男は小さい頃からこういうところがあって、こちらが一般常識で話して聞かせていたことでも「でもこんなこともあるんじゃない?」と意表を突いた質問をしてくることがあります。

 

私はこのように一通りでない物の見方をしてくれるのをとても嬉しく思っているのですが、普段「当たり前」と思っている事に対して疑問を抱くというのは大人にも必要なことではないかと思うのです。

 

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年を取るにつれ強くなってくる固定観念

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人は誰しも生きているといろいろあります。

 

嬉しい思いや悲しい出来事など、ひとそれぞれいろいろな経験をしながら年を重ねてくるものです。

 

そのような経験を元にして次第に物事を判断するようになっていき、そうやって個人の人格というものが出来上がってくるのだと思います。

 

これは「道を飛び出せば車がくるかもしれない」などの危険回避ができるようになるという面では役に立つものですが、経験に頼りすぎると「先入観」で物事を見がちになるところに問題が潜んでいるような気がします。

 

 




 

 

 

先入観で生きることの弊害

先入観で物事を見るようになると、人は次第に自分で考えようとしなくなります。

 

今目の前にある事柄を、過去の似たような経験と照らし合わせて「きっとこうだよね」という思い込みで行動しやすくなります。

 

こうやって自分で考えることをやめてしまった人というのは、メディアなどのそれらしい情報を鵜呑みにしがちになります。

 

「これが今人気です」

「こんな人が増えています」

 

このような情報を専門家などという肩書きのついた人たちが話せば、迷うことなく「そうなんだ」と信じてしまう。

 

その都度、その情報が「自分にとって本当に必要なのか」「自分のやりたいことなのか」という視点でみれなくなっているので、物事の本質を見落としてしまいがちになります。

 

いわゆる「情報に流される」というやつです。

 

ママ友関係でもこれは言えると思うのですが、誰かがあるママさんの噂話を流せば、それを聞いた人が疑うことなく信じてしまうようなのもこの一例です。

 

実際自分が直接そのママさんから話を聞いたわけでもないのに、第三者の話をそのまま信じてしまう。

 

これは噂話を聞いた人が自分で考える事をせずに、「本当にそんな人なのかしら」と想像力を働かせていないことが原因なのです。

 

想像力が欠如することの恐ろしさ

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「普通」という言葉で一括りにされた世界に想像力はありません。

 

普通って何なのでしょう。一般常識?多くの人がやっている事?

 

私は、普通というのは、自分にとってしっくりくる考えや納得できる事柄のことだと思っています。

 

そして、これは誰かと比較して優劣つけるものでもないと思うのです。

 

自分にとって普通のことでも、それが他人には非常識に感じられることは多々あります。逆もしかりです。

 

人それぞれ考えが違えば価値観も違ってくるわけで、これは当然のこと。

 

それが「個性」であり、その人の持ち味となります。

 

ですが、普通という解釈を「大勢多数」と理解している場合、この個性は埋没してしまいます。

 

一定の価値観に縛られ、自分の意に反して「普通」であろうとすると、自分の行動の意味を見失ってしまうことになりかねません。

 

これを痛烈に感じた出来事が過去にありました。

 

私の友人Eが結婚するという話になった時のこと。

 

当時職を転々をしていた新郎だったのですが、Eの指には某有名ハイブランドの婚約指輪がはめられていました。

 

話を聞くと、Eはどうしてもそのブランドの婚約指輪が欲しかったらしく、でも新郎にはお金がなかったので、Eの親などにお金をだしてもらってその婚約指輪を購入したということでした。

 

それを聞いた私は「その婚約指輪に一体誰のどのような思いがこもっているのだろう…」と疑問に思った覚えがあります。

 

Eにとっての婚約指輪というのは「結婚するためのアイテムの一つ」に過ぎなかったのです。

 

その婚約指輪は芸能人も結婚・婚約の際に購入するような人気と言われるブランドのもので、私にはEが「婚約指輪ならあのブランド」という名声にのぼせてしまって、「何のためにその指輪が欲しかったのか」ということに目を向けられていないのがとても気になってしまいました。

 

これも一つの価値観なのかもしれませんが、私にはこれも自分の頭で物事を考えられずに「普通」に流されてしまった結果なのではないかと思えてしまいます。

 

そんな感じで結婚したEでしたが、親離れ(子離れもかもしれないですが)できていないEは、当時勤めていたご主人の勤務先をEの実家近くにさせるために転職させ、ほぼ実家に入り浸るような生活を送り、現在では友人誰とも音信不通になっています。

(以前、詮索好きなママ友話で書いた友人のことです)

arrow47_004詮索好きなママ友のかわし方は1つではない!5つの特徴とその対処法とは?

 

結婚というのは、指輪をもらったりドレスを着たりすることだけじゃない。大切なのは、結婚相手とその後の人生をどう歩むかだと思うのです。

 

メディアで持ち上げられていることでも、それはそれとして自分の価値観をしっかり持っておくには、想像力というものは欠かせないと思います。

 

想像力を使って他人と違う自分の考えを認められるようになると、自然と自分と違う考えの人も受け入れられるようになってくるのです。

 

「自分の考えとは違うけど、そういう考えもあるのか」と思えることは大切です。

 

この世の多くの問題は、価値観の違いを受け入れられないことから生まれているのですから。

 

 




 

 

 

考え方に柔軟性を持たせた自分らしい生き方が理想

自分の個性や価値観を大事にすることは大切です。

 

ですがこれも独りよがりになっては意味がなく、毎年成人式で大暴れしている新成人のように自分らしさの意味をはき違えるとトラブルを招く原因になることもあります。

 

自分らしく生きるためには、相手の個性も尊重する必要があります

 

自分の価値観は多くの人と接することで確立されていくものです。

 

そのような経験の中で物事の考え方の幅が広がり、想像力が鍛えられていくと思うのです。

 

私はこのような思いから、我が子には…

 

■考えることの大切さ

■疑問に思う習慣

 

を身につけて欲しいと思っています。

 

なので、今回の長男のこのテストの回答は、私としては個人的に100点をつけたいくらい(笑)

(100点じゃなかったことがバレますかね 笑)

 

私が学生時代に習った歴史の事実も現在では変わっているようですし(鎌倉幕府は、もう1192つくろうではないんですってね)何が正解かなんて分からないような世の中になりつつあります。

 

いや、最初からそんなものないのかもしれない。

 

正解は自分の頭で考えて掴み取っていって欲しい。

 

それが生きる力になると私は考えています。

 

 

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