体罰は教育現場に必要なのか?小学生の長男の体験からそのあり方について考えてみました

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「この前、先生にげんこつされた」

 

小学1年生の長男。以前話をしていた時に、突然こんな話題になりました。

 

長男の担任はまもなく退職か?と思しき初老の女先生。

 

とてもげんこつなどしそうな感じではないので詳しく聞いてみたところ、長男をげんこつしたのは他所のクラスの男の先生でした。

 

私「なんでげんこつされたの?」

長「運動会の練習で、僕がふざけてたから」

 

最近は学校などでの体罰が問題になっていますよね。

 

長男曰く、この先生のげんこつは「コツン」というくらいの軽いものだったとのことで、私も「そりゃ、ふざけてたんだからげんこつされても仕方がないね」と長男と話したのですが、このケース、親によっては「体罰だ」と騒ぎそうな事例です。

 

体罰に関しては賛否さまざまな意見がありますが、私は長男のこの出来事がきっかけで体罰についてしばらく考えていました。

 

そこで今回は、体罰について自分の学生時代の経験とこの長男の事例を照らし合わせながら、体罰は教育現場に必要なのかどうかを母の立場として考えてみたいと思います。

 

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昭和の教育現場では体罰は日常的だった

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昭和50年代生まれの私が過ごした学生時代というのは、教師からの体罰というものが日常化していたように思います。

 

特に、私の過ごした北九州という場所は、土地柄ヤンキーなども多数存在しており(今でもですかね)、尾崎豊の歌をそのまま再現したような荒れっぷりの中学校で3年間を過ごしました。

 

ヤンキーもカースト制度があって、上級?ほど学校にはほとんど出てこず、出てきても教師に対して非常に反抗的。

 

学校には来るけど、制服の改造や髪型・髪色で指導をされる中クラスのヤンキーでも、教師にタメ口とか当たり前で、彼らもよくビンタをされていたりする様子を目撃しました。

 

でも、誰もそれを疑問に思っていなかったんですよね。

 

悪いところがあるので注意されているのだけど、それだけでは改善されない結果体罰をされているという認識が周囲やヤンキー当人にもあったように感じます。

 

「殴られても当然じゃん」という共通理解。

 

ただ、この体罰によって何かが変わったかと考えれば、私は特に思い当たるところがありません。

 

私はヤンキーとは程遠い地味な学生生活を送っていたので、もちろん教師に殴られたなどの経験はないのですが、教師に殴られたヤンキーがそれで改善したかというと、そんな様子もなかったような記憶があります。

 

彼らはたいていあっけらかんとしていたというか。「またあいつ殴ってきたよ」くらいの、体罰が勲章のような捉え方をしていたように思います。

 

体罰反対の風潮の中、荒れる教育現場

現代は、体罰に対して非常に過敏な親が多くみうけられます。

 

それはメディアの発達で、体罰に関する幅広い報道を誰でも手軽に入手できるようになったことにも一因があると私は思っています。

 

というのも、「どこどこの中学校で体罰により生徒が怪我をした」などのニュースは、ネットなどであっという間に広まってしまうからです。

 

そうなると、「最近の教師は体罰の加減を知らん」とか、教師の資質を問うような意見もでてくるのですが、最近になって目につくようになってきたと思われがちな過度の体罰というのは、実は昭和の時代にも存在していました。

 

昭和60年に起こった「岐阜県立岐陽高校体罰死亡事件」なども、体罰とも言い難い限度を超えた事例です。

 

この事を考えると、体罰自体は過去も現在もその程度はそれほど変わっておらず、むしろ体罰反対の風向きの現在の方が体罰の実質割合は減少しているのではないかと感じます。

 

その証拠に、以前NHKで「”体罰なき指導”に悩む教師たち」という特集が組まれていたのですが、そこには体罰を逆手にとった生徒の挑発に悩む教師たちの苦悩が映し出されていました。

 

学校から逃亡しようと校門をよじ登る生徒の足を掴んだだけで「体罰だ」と言われ、その手をゆるめてしまう教師。

 

「かかってこい」などの生徒からの挑発に、なにもアクションを起こせない教師。

 

手を出せば「体罰だ」と親に責められるジレンマのなか、体罰以外での生徒との関わり方を見出した学校の例も紹介されていました。

 

私はこの「体罰以外での生徒との関わり方を見出した」という点がこの体罰問題の核心だと思います。

 

体罰で生徒の何を変えられるかはわからないけれど、体罰がなければ生徒との関わり方がわからない教師というのが問題なのです。

 

生徒の心に響く交流を持てる教師が必要

Delicious red apples on desk with blackboard in background

体罰というのは、人を恐怖で支配することだと私は思っています。

 

殴る・蹴るといった身体的なものだけでなく、体罰には「言葉の暴力」もあります。

 

「こんな事もできないのか?」などの蔑む言葉などは、外からは見えなくても心の傷として言われた本人の中に長年残っていくものです。

 

では、体罰が傷以外に何かを残せるのか。

 

体罰の必要性を説いている「体罰の会」では、体罰をこのように捉えています。

 

体罰とは、進歩を目的とした有形力の行使です。体罰は教育です。それは、礼儀作法を身につけさせるための躾や、技芸、武術、学問を向上させて心身を鍛錬することなどと同様に、教育上の進歩を実現するにおいて必要不可欠なものなのです。

出典:体罰の会 HP

 

私には、恐怖で植え付けた事が本当に心身の鍛錬につながるかは、疑問です。

 

「殴る・蹴る」「暴言を浴びせる」などが心身の鍛錬につながるとすれば、そこにはその体罰を受けた相手が感じ得るだけの愛情が注がれていないとダメだと思います。

 

「自分が何のためにこのようなことをされているのか」が体罰を受ける側に理解できていないと、体罰はただの暴力です。

 

我が家の長男は、運動会の練習中に自分がふざけていたという認識があったので、先生からのげんこつも容認できていたし、その意味を分かっていました。

 

「コツン」という程度の問題ではない、やること自体が体罰なのだと考える方もいるかもしれません。

 

でも、私はその体罰を行った意味を生徒にしっかり伝えていてくれれば、その行為自体は問題ではないと思っています。

 

そういう教師の場合、体罰も限度を超すことはないからです。

 

一度の体罰でビンタを30発もしたり、鼓膜を破ったりするような事例も聞きますが、ここまでいくと生徒に何かを伝えたいというよりも、教師個人の感情が先行しているように思えてなりません。

 

これではされた生徒には、痛みや教師に対する憎しみ以外なにも残らないと思うんです。

 

教師は、生徒がどうしてそのような行動に走るのかに目を向けて接するべきです。

 

でないと、恐怖で生徒を支配したところで、生徒の中の根本的な問題が改善しない限り、体罰では表面を取り繕っただけの結果に終わってしまうからです。

 

行動面が幼い小学生に比べ、中学生・高校生になると学校生活の規律にかんしてもおおよその分別はついているはずです。

 

そこであえて問題行動を起こすのは、「自分とどこまで向き合ってくれるか」と教師を試している可能性もあります。

 

本当は家庭内で問題を抱えていたりするのかもしれません。それを言い出せず、でも誰かに気づいて欲しいとサインを出しているだけかもしれない。

 

日本全国の教師のみなさん。

 

生徒に手をあげそうになる前に、もう一度生徒とのコミュニケーションのあり方を見直してみませんか。

 

生徒自身が納得できる体罰なら、それも結構。

 

ですが、問題行動を起こす生徒には根気強く向き合うことで、体罰を用いなくとも「対話」で解決できることがほとんどではないかと一母親として思うのです。

 

我が子に接するように愛情を持って生徒に接してくれる教師が増えることを願っています。

 

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