毒親の葬儀に出席して私が思った事。迷っている人は出るべきだと思うその理由とは。

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「毒親の葬儀に出るかどうするか迷っている」

 

このような悩みを抱えた毒親育ちの方、実は意外と多いのではないでしょうか。

 

私のブログにもこのようなお悩みから訪れてくださっている方がチラホラいらっしゃるようです。

 

過去記事をご覧になっている方はすでにお分かりかと思いますが、私の母も毒親でした。

過去記事はこちらをどうぞ>>>毒親

 

過保護・過干渉型の毒親でしたが、そんな母は私が結婚して1年足らずで急死しました。

 

原因は、突発的な病気によるものでした。

 

結論から言いますと、私は母の葬儀に出席して良かったと思っています。

 

ただ、私の場合は母が毒親だったと私自身がはっきり自覚できたのが母の死後ということもあり、現在毒親との関係について悩んでいる方とは少し状況が違うのかもしれません。

(その理由については後述します)

 

ですが、さまざまな事情から毒親の葬儀に出席するかどうか悩んでいる方の参考になれば…という思いから、今日は毒親の葬儀に出席して私が思った事を綴ってみようかと思います。

 

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葬儀に対する思いは毒親度で決まる

まず、一言に毒親と言っても、その種類は意外と多岐に渡ります。

 

毒親チェックリストの記事でも書きましたが、毒親がどのようなタイプなのかによって、子どもへの影響力も変わってくると私は考えています。

arrow47_004毒母の異常な行動は娘に対する嫉妬心が関係していた!チェックリストで見えてきたこと。

 

毒親も強者になってくると、暴力や虐待・ネグレクトや金の無心など、周囲からも目に見える形で子どもの心身に影響を及ぼします。

 

このタイプの毒親育ちの子どもの場合は、成長してからも鬱や人格障害など毒親との接点がなくなってからも過去の後遺症とも言える症状に継続的に悩まされている事も多いため、このような方の場合は葬式がどうこう言っている場合ではないです。

 

「接点を持たない」

 

毒親との関係はこの一言に尽きます。

 

なので、おそらくこのような強烈な毒親育ちの方の場合って、そもそも毒親の葬儀に出るかどうかなんていう選択肢すらないはずなのですよね。

 

「葬式なんて出ない」という一択のみで、悩んでなどいないケースがほとんどのはずです。

 

逆に葬儀に出るかどうか悩む毒親育ちの方というのは、その毒親度に周囲からも、また子ども自身からも毒親と断言しづらいような微妙さがある気がしています。

 

私の場合がまさにそうでした。

 

母は過干渉・過保護タイプの毒親でしたが、母の生前は私自身それを毒とまでは思えずに、でもなんとなく母との生活に生き辛さを感じながら子ども時代は生活していました。

 

毒親の葬儀に出るか悩んでいるという方は、もしかしたら過去の私のように毒親を毒とまで断言できない何かわだかまりがある場合や、「親戚の手前…」など周囲の状況を気にする結果、踏ん切りがつかないという場合が多いように感じます。

 

亡くなるまで母を毒親と思えなかった当時の私の心境

繰り返しになりますが、私は母が亡くなるまで母の事を毒親だと思いきれていない部分がありました。

 

子どもの頃から私の言動をすべて否定してくる母のことも「気が合わない人だな」程度にしか考えていませんでしたし、過保護・過干渉で何かに付け私をコントロールしたがる母の性格も「心配性なんだな」くらいにしか捉えていませんでした。

 

ただ、そんな母との生活にフラストレーションはずっと感じ続けてはいたので、私は大学進学と同時に家を出ました。

 

「自分の頭で考えて行動したい」というのが家を出た一番の理由だったのですけど、長い間母からの人格否定・過干渉・支配の中で生活していた私は、知らず知らずの間に母を頼る癖がついていたんですよね。

 

共依存というやつです。

 

なにをしても、なにを言ってもどうせ母から否定されるから、自分の意見なんて持たない方がいい。

 

言うことさえ聞いていれば母が大抵のことはやってくれるので、私もいつの間にかそうやって母が手を出してくれることに慣れてしまっていたのです。

 

母の過干渉に「うっとおしいな」と思うこともありつつ、便利な面ではそんな母を利用している私もいました。

 

そんな当時の私は母だけでなく、誰に対しても自分の気持ちを言えないような人間で、本当に受動的に生きていたと感じています。

 

一人暮らしを始めたことで、少しずつ自分で行動出来る事も増えていきましたが、それでも続いていた母からの干渉に「NO!」と言えない自分がいました。

 

母が急死した時の私の心境

私が結婚してからも何かと続いていた母の干渉。

 

そんな母が突然亡くなってしまった時、私が真っ先に考えたことは…

 

「この先どうやって生きていったらよいのだろう…」

 

でした。

 

おかしいですよね。

 

「自分の頭で考えて行動したい」といい家を出て結婚もし、それこそ自分で人生をいくらでも思うように歩いていける身であった私の第一声がこれでした。

 

私もまた完全に母に依存していたのです。

 

母を煩わしく思いつつも、心のどこかで「母がどうにかしてくれる」という思いが常にあったのです。

 

当時の私は結婚したばかりで、これからの出産や子育てに不安を抱いていた時期でもありました。

 

「出産をどこでどうやって乗り切ればよいのだろう…」

「子育ての事、誰が教えてくれるのだろう…」

 

すべて母に頼めばどうにかなると思っていた私は、その当時相当な不安に駆られていました。

 

ただ、そんな状況はそう長くは続きませんでした。

 

母の葬儀を終えて私が気づいた事

母の葬儀、私はとても悲しかったです。

 

やはり突然ということもありましたし、心の準備もなく、母とは気が合わないながらも何かと依存し合い暮らしていた私にとって、やはり母の死というのはいろいろな意味で私の中に大きな喪失感を招きました。

 

ただ、母の死後しばらく経って気づいたのが、母が亡くなってからの私の生活にさして支障は出なかったということでした。

 

むしろ、親戚付き合いなどがしやすくなったという、人間関係の風通しの良ささえ感じるようになっていました。

 

以前も書きましたが、母は生前、私のある事ない事をおもしろおかしく親戚中に伝えるようなところがあったので、親戚の中では私の変なイメージというのがついてしまっていました。

 

陰気でダメな子というようなレッテルです。

 

そのため、子どもの頃は親戚が集まるような場で、私1人その輪に加わりにくいような雰囲気があり、いつもどこか遠くの部屋にこもっていた思い出があります。

 

日頃から否定ばかりされるのを、親戚の集まりなどの大勢の場で披露されるわけですから、私としてはそんな場にいることが苦痛でたまりませんでした。

 

そしてますます内向的な性格になっていくという悪循環…。

 

盆と正月なんてこなければいいのに…と思っていた子ども時代もありました。

 

幼少期ほどではありませんでしたが、こういう母の行動は私が大人になってからも続いていたのですが、母の死後、自分らしく親戚づきあいもできるようになり、私自身とてもラクになりました。

 

伯母などからも「あなた、結構しっかりしていたのね」などと言われるようにもなりました。

 

こういう事が重なるにつれ、私は「もしかしたら、私の人生を生き辛くしていたのは母だったのではないか…」と考えるようになったのです。

 

そういえば、母と行動していると母の言動から恥ずかしい思いをすることが多かったな~と思い出したり…。

 

友達関係を勝手に決められ、私が仲良くしていた友人の事を悪く言われたり…。

 

そんな母の考えを押し付けられ、それを実行しないと母が不機嫌になっていたり…。

 

とにかく私が外へ興味を持つ事・私の良いイメージが外についてしまう事を母は嫌っていた節がありました。

 

私がおしゃれをする事に対しても毎回猛烈にダメ出しをしていたのも、おそらく私の意識が外の世界へ向いているのが母にとって面白くなかったのだと感じています。

 

だから常に干渉してくる。

 

「私がいないとお前は何もできないんだよ」と言わんばかりに私に関わってきていたのだと、母が亡くなってから私はそれまでの母の行動の意味を理解できるようになりました。

 

母も私に依存することで、自分の存在意義を見出していたのかもしれません。

 

毒親の葬儀に出る事はひとつの区切りになる

私の場合、このように母が毒親で、私と母が共依存の関係にあった事にはっきり気づけたのは母の他界がきっかけでした。

 

亡くなった当初は明確でなかったその思いも、母の葬儀に出席するという事が気持ちを整理するひとつの区切りになったように感じています。

 

葬儀の時は喪失感の方が大きかったものの、「母はもうこの世にはいないんだ」と実感できたことで、それを機に少しずつこれまでの自分と母との関係を客観的に捉えられるようになりました。

 

前置きは長くなりましたが、毒親の葬儀に出席するかどうか悩んでいる方は、ご自身の毒親に対する思いに決別する意味でも、私は葬儀には出席する事をおすすめします。

 

今現在ずっと毒親からの支配や嫌がらせに悩んでいる方にとっては「なんであんな親の葬式に行ってやらないといけない?!」と思われる気持ちもよく分かります。

 

顔も見たくないほど辛い目にあわされているのであれば、葬儀に出ないというのもひとつの選択肢です。

 

ですが、葬儀に出て、亡くなった親の顔をみることで、きっとその時にしか分からないいろいろな感情が出てくることと思います。

 

そして確かに言えるのは、葬儀に出ることで「これで関係は終わるんだ」という区切りが自分の中にできるということです。

 

この区切りを付けられたことは、私にとってとても大きな意味がありました。

 

母の葬儀を境に、それまでの母と自分との関係や今後の自分の姿を俯瞰して見られるようになり、自分自身の性格も随分変わったと感じています。

 

毒親との関係に現在も悩んでいる方にとっては、この葬儀に出るという行為は親の供養という意味合いよりも、ご自身の気持ちの整理のために出るべきだと私が思うのにはこのような理由があります。

 

それでも毒親の葬儀に悩んだら…

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ただ、毒親の葬儀に悩む場合、その原因はいろいろかもしれません。

 

■顔は出したくないけど、立場上葬儀の手配はしないといけない
■最後のお別れはしておきたいけど、両親共に毒なので、葬儀で現役毒親に会うのが苦痛

 

など、葬儀に対する心配事も多々あるかもしれません。

 

そのような場合はご自身にとってベストな対応ができるよう、その道のプロに相談するのもひとつの手です。

 

シンプルなお葬式では24時間365日いつでも葬儀に関する相談を受け付けてくれています。

 

毒親とのどのような最後を望んでいるかによって葬儀の方法もアドバイスしてもらえますので、初めてで分からないことだらけでも安心して相談できます。

 

 

毒親の葬儀に出るか出ないか、答えは一つではないと思います。

 

ご自身が後悔しない毒親との最後の時間が持てるよう、私の経験談が参考になればと思っています。

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